浅野と三浦綾子愛読者ページ

愛

※三浦綾子愛読者ページが現在休止中のため、Q&Aコーナーのうち浅野が回答したものを掲載しております。

 

疑問469 Kさん (2007/4/24)

 

結婚についての悩みがあります。僕と結婚してくれそうな異性は今の所、教会にはいないと思います。僕の教会はノンクリスチャンの異性との結婚は認めていませんので、このまま教会に通えば、一生独身の可能性は強いです。20代のころは、何とかなると思っていましたが、30代になると、もう厳しいなって思い始めてきました。一生独身でもいいかなと思うときもあるのですが、寂しさに耐えられるなって思うときもあります。

 

教会の奉仕もだんだんと疲れてきました。遅い時だと0時を超えるときもあります。独りの部屋に帰って、真っ暗の電気をつける時に、いいようのない寂しさに耐えられない時もあります。まだ、遊んでいたり、飲んで遅くなるのなら、それなりに耐えることができるのですが。

 

人間の3大欲求には、食欲、性欲、集団欲があると思うのですが、僕が満たされるのは食欲だけです。このまま、何の特技も身に着けずに、結婚もできずに、教会だけ通い、奉仕を行っていく事に耐えられそうにありません。10年前のあのときに教会に誘われていなければ、と悩むこともあります。

 

教会の方からは、いい歳なんだから結婚したら、とか、結婚はどう?とか軽い言葉をかけられますが、だったら誰か紹介しろよ!が本音です。もちろん、結婚出来ないのを分かって言われています。祈りましょう、とも言われますが、祈りも無意味だと最近感じます。

 

奉仕をしても報われそうにもない、感謝もされない。当たり前だと思われている。このまま独りで歳をとっていくべきか?それとも、教会をやめて、せめて結婚だけでもしておくか、そろそろ分かれ道がきていて、悩んでいます。

 

回答 浅野 (2007/5/3)

 

Kさん、こんにちは。

 

Kさんが悩んでいらっしゃる結婚の問題については、今、潜在的に教会生活を送る若い信徒の大部分が、直面している問題かな、と思いました。私自身、今独身ですし、もうそろそろ30代に入ります。教会では私の年齢の上下十歳つまり同世代は一人もいませんし、他のいくつかの教会でもそういう話を聞きます。信徒が増え続けている教会は例外として、それ以外の教会は、というかほとんどの教会がそうだと思うのですが、信徒のピークが戦後すぐで、それ以後信徒数は減少傾向で、高齢化と教会の実際手足となる若手の不足に私の知る限り、悩んでいるようにおもいます。

 

Kさんが通っていらっしゃる教会は、たとえばキリスト教の他の教派との結婚も不可なのでしょうか。もし不可でないとしたら、自分の生活圏内で別の教会にためしに行ってみるというのも、手かもしれません。

 

奉仕については、教会によって事情が違うでしょうが、これからどの教会でも若手信徒の負担は増加していくと思います。私自身、今やっている奉仕を、もしキリストを信じなければやっていないんだからその分自分の自由時間が増えると思うこともありますし、5年後を考えると、増加する負担を果たして支えきれるのかと不安になることがあります。

 

ただ私は0時を超えての奉仕は経験したことがありませんし、Kさんが通う教会での、奉仕が、例えばKさんに集中する傾向があるのであれば、牧師(あるいは神父)や役員と、その部分について話し合うことは可能でしょうか。話し合いも難しいようであれば転会等も視野に入れるべきだとは思います。ただ、同時に、自分が教会を抜けた場合、その教会が存続できるかどうかも視野に入れて、その2つの条件が満ちたときに出るのが無難かもしれません。

 

結婚については、私、一個人の意見ですが、相手はクリスチャンのほうが無難だろうなとは思っています。そのほうが、子供を育てていく場合の諸問題についても、尊重しあえるだろうと考えるからです。例えば、私はタバコは吸わない、賭け事はしない、婚前交渉はしない、という人間なんですが相手にもできればそうであってほしいと思っています。そう考えて周りを見るとクリスチャンの知人友人は、ほとんどがそういった立場に立つので、その方が家庭を築きやすいかなと思っています。

 

あとは、Kさんにとってキリスト教がどのくらい大切かということだと思います。私としては教会も行き続けられて、かつ、Kさんが結婚できる方法があればいいなと思って回答を書いてきましたが、例えば教会に通っていることの意味が見出せない、とか、教会のことを考えると嫌悪感が心に生まれるとか、そういった状態であれば、しばらく教会をはなれてみてもいいかも、と思います。

 

今回の問題によって、Kさんが悩んで学んだことを通して、あとから振り返った場合に、かえって今回の問題があったことを喜び感謝できるように、イエス・キリストの貴き御名を通して、アーメン。

 

 

疑問468 Fさん 兵庫 (2007/4/18)

 

綾子さんに出会ったのは、もう20年も前。すっかり魅了され、彼女の本は全て読んでいます。もちろんキリスト教に入信志望も持ち、プロテスタントの教会に通ったり、いろいろ勉強しましたが、どうしても、プロテスタントには入り込めず、カトリック信者になりました。どの本にも、何故彼女がキリスト教の中のプロテスタントを選んだか、書いていないように思います(私が見過ごしているのかも)。知ってる方いらっしゃいましたら、是非教えて下さい。

 

回答 浅野 (2007/5/3)

 

Fさん、こんにちは。

 

たぶん、三浦綾子さんを導いたクリスチャンたちがプロテスタントだったからだと思います。導いたクリスチャンがカトリックだったら、きっとカトリックだったと思いますし。

 

「光あるうちに」でも確か、キリストの教会という項はありましたが、プロテスタントを進めるような記載はなかったと思います。三浦綾子さんにとっての信仰は天を見上げてのキリスト教であり、地上に目を向けてカトリック、プロテスタントの違いは人間の間での問題だから、触れなかったのではないでしょうか。

 

後、個人的に思うこととしては、三浦綾子さんは日本キリスト教団に所属していました、私も、同じ教派に所属しているんですが、日本キリスト教団は合同教会ですから、教義・教派の問題で突き詰めようとしたら議論はいつまでも終わらないし、分裂していってしまうと思うんです。牧師同士の話では教義・教派の問題はよく話し合われているようですが、信徒同士だと、そういう話ってまったくでてきません。信徒はどちらかというと、日本キリスト教団という大きくて寛容な立場の教派に愛着を持っているように思います。もちろん、厳格にやっている教会もあるんですが、それを含めてお互いの立場を尊重するというような自治が成り立っているので。それに超教派の集まりとか私の住んでいる地区だと日本キリスト教団の信徒がたぶん一番積極的に参加してたりします。先輩の信徒の方と一緒にそういう集まりに行くと感じるんですが「天はひとつ」と信じているんだろうなと。諸事情で地上にはいろんな教派があるけれど、天に教派の境はないでしょうしね。去年も私の通う教会から、ルーテル、カトリック、パプテストへの転会された方がいましたが、それがあったからといって教会間がギクシャクするようなことなかったですしね。だって、それぞれが、居心地がいいすごしやすい教会がベストじゃないですか。私の知る限り、日本キリスト教団は、教派間の問題についてはゆるーい教派です。そういう部分も、三浦綾子さんのキリスト教観に影響があるのかもしれません。

 

 

疑問436 Cさん 地方 (2005/11/8)

 

日本基督教団の古くからある教会に連なって3年半になりますが、教会の婦人会の古株の女性連の「一部」が苦手です。まるで町内会の井戸端会議のような雰囲気で、新入りの私自身いろいろな苛めにも合いました。原因は嫉妬だと思います。溶け込めるように何度も何度も努力もしましたが、陰湿さは増すばかり。私に対してだけでなく、結局、新入りは要らないというスタンスなので「閉鎖的」です。自分たちだけで仲良しクラブをしていたいのです。中には尊敬に値する素晴らしい信仰を持った方々も居て信仰を求めて教会に連なる私にとって、ただ長く居るというだけで威張るおばさんたちは苦手。

 

信仰の深さを責める。腹が立つ。などキリスト者として、良くないと思い、ついつい礼拝に足が遠のいてしまいます。

 

教会を変えようかと思っている今日この頃ですが、みなさんだったらどう捉えどう行動なさいますか。

 

回答 浅野 (2005/11/18)

 

Cさん、こんにちは。

 

私がCさんの立場だったらどうするかな…と考えてみると、私だったらまず、自分が通える範囲内のほかの教会にいって礼拝に出席してみると思います。Cさんもご存知のようにクリスチャンは旅行先で別の教会で礼拝を守ることって、ふつーにあります。日本基督教団のほかの教会へ行ってみるも、よし、パブテストやルーテル、カトリックなど実際参加してみるといいと思います。同じ教会の方から、別の教会へ出席していることを指摘されたら「用事があって自分の所属する教会の礼拝には間に合わないから、その教会の礼拝に出席したの」と答えればいいでしょうし、日曜日礼拝を守ることは、クリスチャンとしてはすごくいいことなんですから、それ以上、深く問い詰めてくる方は、あんまりいないと思います。

 

自分と相性がいい教会って、やっぱりあると思います。私個人は日本基督教団に所属していますが、私の旧知の方で、日本基督教団というか…私の通っている教会がしっくりこず別の教派へ転籍された方もいます。その方たちを見ていると教会を変えたことによって、すごく生き生きとした表情をしておられるから、神様がその人をより良くもちいる教会へ転籍させるためにあえて試練というか困難を備えたのかなと思います。

 

困難って、あってみなければわからないものですし、その経験はCさんの、もちい方しだいですごくすばらしい宝物にかわります。このようなつらい体験は、その体験をしたあなたにしかできない、人への思いやり、励ましの種をCさんの心に蒔いたと思います。大切に育ててください。

 

どんな困難にしろ、イエス・キリストはCさんを困らせようとか苦しめようと思ってそれを備えたのではなく、Cさんにとっての一番すばらしい人生にとって必要だから備えてくれたのだと思います。クリスチャンにとって一番の特権は、神が自分をすごく愛してくれていることを感じれることだと思います。自分の目にはマイナスに見えても、神様の目から見ればきっと自分にとって必要な試練なんだ、そう考えそして神の計画を信頼できるのはクリスチャンこそなせるわざです。すべてのこと相働きて益となる、すべては最善のために、起こるのですから。

 

今回の体験を通してCさんが感じたことを覚えておいて、自分が古参になったとき、決して同じように新しくこられた方に、しないように、すれば、今回の経験を生かすことになるし、そうできるようであれば、きっと今Cさんの思い描く、尊敬に値する素晴らしい信仰を持った方に自分自身がなれると思いますよ。

 

今の教会に残るにしろ、転籍するにしろ、祈りながら、祈りを通してイエス・キリストと相談しながら、進めていってください。ワインにはワイングラスが、ビールにはビールジョッキがあるように、Cさんにとってよいコーヒーカップが見つかることを祈っています。イエス・キリストの貴き御名を通して、アーメン。

 

 

疑問433 Tさん 兵庫 (2005/10/5)

 

初めて書き込ませて頂きます。私はある仏教系カルト団体を抜けて数カ月経つのですが、三浦綾子氏の書籍を読んで、キリスト教、イエス・キリストに関心を持つようになりました。

 

それで、キリスト教には、創世記でイブが悪者になっていたり、新約聖書の方に「夫は妻のかしら」という文があったりして(教団によっては女性の中絶も認めないところもあると聞いています)、やっぱりキリスト教でも女性差別があるのかと

 

思ってしまいました。それでもイエス・キリストに関心はあるので、女性に対して冷たくない宗派があれば、そこの教会に通ってみたいと思っているのですが、やはりプロテスタント系が一番良いのでしょうか?

 

(2005/11/7) 浅野さんへ

 

回答どうも有難うございました。お返事遅くなってすみません。男女差別があるかどうかは教派じゃなくて、むしろ個々の教会で見た方が良いんですね。あんまり決めつけないように、じっくり探して選ぼうと思います。

 

>キリストは「あなたを、許します」といって一切罰しない。

 

イエス・キリストは、本当に比べるもののない大きな愛を持った方だと思いました。私だったら絶対、報復しているな…

 

男女の性交渉…やっぱり子供が産まれる、っていうことも念頭に入れてる人の方が信用おけるし、賢くて温かいですね。

 

>technoboさんのこれからの人生が、より豊かな愛の実を結ぶことを祈っています。

 

有難うございます!この頃「愛」ということについて、少しずつですが判りかけてる気がします。

 

回答 浅野(2005/10/29)

 

Tさん、こんにちは。

 

三浦綾子さんの、書籍を読んでキリスト教について、イエス・キリストについて興味を持ったとのこと、とてもすばらしいことだと思います。

 

女性差別…これについては、各教会・教派によってスタンスが違うので一概に答えるとまずいかもしれないけれど、私が教会に連なっていて男女について感じることは、役割分担があるのは、事実です。

 

たとえば、私の所属する教会では第一聖日(だいいちせいじつ、と読む。月初めの日曜日のこと)に、その月の誕生日の人達を祝うため、食事会が教会の中であるんですが、女性は料理を担当しますし、男性は机を並べたりイスを運んだりします。

 

それから女性の中絶についても、やはり教会・教派によって違うので一概に言えないんですが、私の所属する教派はどうなんだろう…知らないな…その、基本的に私の周りにいるクリスチャンの方で中絶をした・あるいはさせた方がいないので、なんともいえないんですが、だから、私個人の意見を、ここから先は書きます。

 

まず、男女が交渉を持つ、その行為自体が生命をはぐくむための行為ですから、子供を育ててゆくための環境が男女共できていなければ、すべきでない、と私は思います。子供ができたと知って中絶するということは、交渉の相手を動物的な関係では愛せても、人間的には愛せないということだと思います。はぐくまれてしまった生命は、なにも悪いことをしたわけでもないのに、中絶という形で命を失うことになるわけで、本来は男女自身がとるべき責任を、まだ生まれる前の子供に負わせるのはひどいと思います。

 

中絶も、やむをえない場合たとえば母体が出産に耐えれないとか、犯罪が関係しているとか、そういった場合は、仕方がないと思いますが、それ以外ではあまりすべきではないと思います。中絶って、当たり前なんですが生まれる前の胎児を殺すことです。殺す…じゃあなんで、殺人罪の話にならないかというと、人間は出生によって人権を手に入れるからです。私は出生前なら殺人罪にならず、出生後なら殺人罪になります、という子供が人権を手に入れる時期が今日の医学科学のレベルからいって、ずいぶん遅れていると思います。

 

 

友人から聞いた話なんですが今日の医学だとかなり早産してしまっても、その子を普通に健康に生きてゆくレベルまで育てていくことは、そんなに難しいことではないそうです。たとえばまったく同じ時期に受精して、今それぞれの母体の中にいる胎児が2人いるとして、一方は、早産してしまったために人権が認められ、もう一方は母体の中にいるために中絶によって命を落とす、としたら不合理だと思うからです。

 

はなしが脱線してしまったので、回答に戻ります。女性に対して冷たくない宗派(ちなみにキリスト教では、教派きょうは、といいます)を探すより、女性に対して冷たくない教会を探すほうが、適切かもしれません、たとえば同じセブンイレブンでもお店によって接客や雰囲気ってぜんぜん違ったりすることありますよね。教派で探しても、その教派のなかで、Tさんの目から見て、女性に優しい教会と、そうでない教会が、あると思うからです。こう、前置きした上で、教派について、少し書きます。

 

三浦綾子さん自身は日本キリスト教団というプロテスタントの教派に所属していました(ちなみに日本イエス・キリスト教団は、これとは別の教派です)。じゃあ、ほかの教派たとえばカトリックの人たちと仲が悪かったかといえば、そんなことはないよ、教派が違っても天はひとつ、信じているイエス・キリストも同じですから。三浦綾子さんが、求道者(キリストを信じたいと思った人)のために書いた「光あるうちに」という本があるのですが、その本のなかで綾子さんは特定の教派を進めていないし、日本キリスト教団という単語を、私はあえて綾子さんは使わなかったんだと思います。かといって日本キリスト教団が、悪いといってるんじゃないんですが(わたしも同じ教派…)。

 

女性に優しい教会と、そうでない教会についてはTさん自身で行ってみて礼拝に参加して確認したほうがいいかも。教会によって個性があるので、いろいろな教会へ行ってみて、自分にとってベストな教会をさがしてね?♪

 

結びに、どうしても書き足しておくべきと思ったので書かせていただくのですが、異端について。異端ていうとなんかキリスト教内部での内輪もめじゃないか、と思われてしまいますが、事実は違います。

 

異端について述べる前にキリスト教ってどんな宗教かというと。TVの水戸黄門を思い出してください。水戸黄門は勧善懲悪の時代劇ですから、結末では水戸黄門一行が印籠というか地位というか権威をふりかざして、必ず悪い者が処罰されて、善いものが救われる、となりますよね。ここに登場する水戸黄門をまずイエス・キリストに頭の中で入れ替えてください。そして良い農民が悪代官に刀で切り殺されそうになったとき、水戸黄門一行がさっそうと現れるところまでは同じなんですが、水戸黄門一行なら武力で悪を懲らしめて、善い農民を救うところを、イエス・キリストはどうしたかというと、善い農民を突き飛ばして代わりに自分が切られてしまう…そして死んでしまう。助かった善い農民は、神の子が自分の代わりに死んでくれたと感動してキリストを信じるようになるし、殺してしまった悪代官は自分は神の子を殺してしまったんだからきっとものすごく苦しむ方法で殺されるに違いないとおびえて震えていると、なんとキリストが復活して、悪代官はうわー自分は絶対ひどい殺され方をされるに違いないと思ってひれ伏していると、キリストは「あなたを、許します」といって一切罰しない。悪代官は自分のような罪を犯した者にも許すといってくれるこの人こそ神の子だと確信するようになるし、ようは、権威を懲らしめるために使うか、許すために使うかの違いなんですが…その復活したキリストの語るメッセージとは「天地を創造した神は、信じるものの一人たりとも滅びることを望まない神です、どんな罪を犯しても本気で神の前で悔い改めるなら、天地の創造主は、あなたを許します」だった、この出来事の象徴として十字架が使われるんです(このシュチレーションなら教会の上に刀があることになっちゃうけど)。だから、教会の上に十字架がある。

 

ようは、当たり前なんですが、キリスト教はイエスをキリスト(救い主、という意味)と信じているんです。ですのでキリストのこの十字架は失敗だったとか…そういったキリストに対する捉えかたが大きくちがっているエホバの証人(もみの木)さん、末日聖徒キリスト教(モルモン教)さん、統一教会さん、の教会は、あなたが三浦綾子さんが信じたキリスト教を求めているのであれば、あまり、お勧めできません。

 

でも、これらの宗教も、キリスト教ではないけれども、違う宗教として尊重してあげるのは、すごく大切ですよね。話がそれますが、わたし駅前をぶらついてると、時々モルモン教の方に声かけられたりするんですが、その時わたしは「末日聖徒さんでしょう?ごめんなさい、私プロテスタントの教会員なんです、でも末日聖徒さん伝道熱心で、すごいですよね、うちも見習わないと…じゃあね、がんばってね、またね!」と笑顔で大きく手を振ってその場を去ります、あちらも、笑顔で大きく手を振ってくれます。そこいらへんの事情は、あちらもわかってくれると思うので、あえて、補足させていただきました。

 

結びにTさんのこれからの人生が、より豊かな愛の実を結ぶことを祈っています。長い回答になって、ゴメンナサイ☆

 

 

疑問432 Rさん 秋田 (2005/9/19)

 

ある病を抱えた者です。以前誤診され、見当違いな治療をされ、病状が悪化してしまいました。その当時の医者、関係者を許すことができずに悩んでいます。

 

しかし「あなたも許されなければならない存在なのだから、許しなさい」という言葉(うろ覚えなのですが)を思い出し、いくらか心が和らぎました。

 

ところで神様はクリスチャンしか許さないのですか?私はキリスト教の考えに共感しますが、自分はクリスチャンにはなれないと思っています。なぜなら数々の教えはとても守れないと思うし、何より愛することができないからです。

 

こんな私が許してもらおうというのは、虫が良すぎますか?

 

回答 浅野 (2005/10/01)

 

Rさん、こんにちは。

 

許すって、難しいですよね。許さないことのほうが、ずっと簡単に思えるくらい、許すって難しい。表面上、たとえば「許した!」と口にしても、お腹の中はぐつぐつ煮だっていることだってあるし、完全に許したと自分では思っていても、後からふとしたきっかけで「やっぱり許せない!」って感情が、ふっとうしたやかんの蒸気のように姿を表すこともあるし。許そうと思って努力した結果、許す事ができたにしろ、できないにしろ「許す」って目的地を目指す旅路は、すごく努力のいるし、しかも大変なことだと思います。

 

私の大好きな綾子さんのエッセイに「明日のあなたへ 愛することは許すこと」という本がありますが、その本にあったエピソードをひとつ。綾子さんが子供のころの話。綾子さんの幼い弟が、自分の使った食器を流しに持っていこうとして誤って落として割ってしまったとき、綾子さんは激怒して弟を責めました。その出来事の後、綾子さんのお母さんは綾子さんを呼んで、こういいました「綾子、あんたねえ、自分は一生食器を割らない人間のように、人を攻めてはいけないよ」その言葉で綾子さんは、なるほど確かに私がこれから一生食器を割らないという保証はない、と悟ったといいます。それに同じ食器が割れるにしろ、自分が割ってしまったときと、他人が割ってしまったときと、まったく同じように裁くことができるかというと、自分が壊したときは「まあ、しかたないか…」程度にしか考えなくても、他人が壊したら激怒する、そんな裁きかたを私たちは無意識にしてしまうのかもしれません。

 

そんな内容が書いてあったと思います。

 

神様はクリスチャンしか許さないか…そんなことないと思いますよ。だって、そんなせこい神様が、天地を創造した全能の神だったら、がっかりですよね。

 

最後の晩餐の後、イエス・キリストをユダたちが捕らえにきたとき、弟子たちは、みんな恐れをなして逃げてしまいました。イエスが十字架で処刑され、そして復活したとき、弟子たちの前に現れて「お前たちには、本当にがっかりした、もう弟子でもなんでもない、そして絶対に許さない」とはいいませんでした、訳によって違いますがキリストは「安(やす)かれ」「お前たち安心しなさい」「心配するな」と言ったとあります。結果的にイエスを殺してしまったほどの裏切りだったのにそれを復活したイエスは「許し」たのです。このことに感動した、そしてイエスは本当に神の子だと確信した弟子たちが伝道しキリスト教が誕生します。

 

キリスト教はユダヤ教国家イスラエルで2000年前発生した宗教です、ではユダヤ教とキリスト教は、どこがどのように違うのでしょう。ユダヤ教の創造主は聖で正しい、だけれどそれゆえに聖だからこそ汚れをはじき正しいからこそ不義を滅ぼすという捉え方でした。でも人間て、わざとにしろ、うっかりにしろ、罪を犯さずには生きていけないものです、罪という言葉がしっくりこなければ、人を傷つけずには生きていけないもの…でもかまいません。オセロでたとえればユダヤ教の基準でいくと1つでも黒(悪いこと)があると残り全部が白(正しい)の人でもその人は悪となります。誰も守れないくらい厳しい正義の基準がそこにはありました。そんな時代に自分は神の子だというイエス・キリストが現れました、そして創造主は聖で正しい、だが、同時に愛であり許しの神なのだと人々に知らせます。それまでは善行、つまりよい行いをしなければ救われないととかれていましたが、キリストはただ信じればいいと言ったのです。そしてどんな重い罪を犯しても心から神を信じてそのことを悔い改めるなら、許される、つまり許しの神です。それまでは人々は自分が不義なら、滅ぼされるという恐怖感を持っていましたが、キリストのメッセージは、神は人々を滅ぼそうと思っているのでなく救おうと思っているということ。そして人々が許されたとしても、それらの人々が犯した罪は残ります。その罪を代わりに償うためにキリストがこの世界に派遣されたのです。そして全人類を救うため全人類の罪を背負ったからこそ神の子キリストを殺してしまうほどの毒があったのだと思います。このキリストが人類に対して自分の命を捨ててでも示してくれた愛、これを聖愛(アガッペ)といいますが、この行為によって、創造主が愛の神であることを示したのです。

 

ゆえにキリスト教では、愛や許しという言葉は、とても大切にされています。綾子さんが本の題名にしたように愛と許しは一心同体のものです。423番の疑問への回答にも書きましたが、キリスト教の信仰で一番大切なものは、愛です。天地創造の神がイエス・キリストをこの地上に送って人々に示したのは、聖だけれど恐れの対象でもあった神が、実は同時に愛の神であり許しの神であることでした。聖書にあるように、愛がなければ、ないに等しい。聖書にあるように、いつまでも残るのは、信仰、希望そして、愛。その中で一番優れているのは、愛です。

 

誤解を恐れずにいえばこの愛以外の、数々の教え(というか、薦め)は枝葉に過ぎません。枝葉だけあっても根っこである愛を失ってしまったらその木は枯れてしまいます。新約聖書の4つの福音書(ふくいんしょ)を読むとわかかりますが、キリストは、形式(というか行為)が重視されるあまり、その心が伴っていないことを、すごく嘆き非難されていました。

 

例えば駅前で募金で考えてみると、周りの人によく思われたいからって募金する人。行為は正しくても、心は伴っていませんよね。自分の信じている宗教で善行をすると天国へいけるからといって募金する人、行為は正しくとも心というか愛がありませんよね。じゃあ、どういうのがいいんだろう? それについてはRさん自身で考えてみてください。

 

愛することができない、と自覚することはとても大切なことだと思います、私も自分はなんと愛のない人間だろうと思っています。でもね、だからこそ私は、愛を学ぼうと思いました、それは先ほど私が大好きだといった本を通して芽生えた思いでした。もしよかったらRさんも立ち読みでもいいから、よんでみてください。なんか、長い回答になってしまった、お許しあれ。

 

 

疑問427 Yさん 東京 (2005/8/7)

 

わたしは今十五歳なのですが、もう11,2年くらいミッション系の学校(幼稚園)に行っています。聖書もちょっとは読んだことがあるし、イエス様も好きなのですが、朝夕お祈りをするという習慣がなかなかつかないのです。母がプロテスタントで、環境としては恵まれているのに、教会にも五年くらいご無沙汰しています。三浦綾子さんの「光あるうちに」を読んだとき、三浦さんが「お祈りをしない事は罪だ」というようなことをおっしゃっていました。それからほんの少しの期間は反省してちょっとお祈りをしてみたりしたけれども、最近はまた、「忙しいから」など、自分で言い訳をしてお祈りから遠ざかってしまっています。

 

お祈りをするのが面倒だと思うのは罪だと思うのですが、みなさまはそのように思ったことがありますか。また、そのような時はどうすればよいのでしょうか。お祈りは、どのような風にお祈りすればよいのでしょうか。ひざまづいてお祈りしなければ不信仰でしょうか。わたしのように不信仰な者は、どうやって神様に近づいて行けばよいのでしょうか。質問攻めにして大変申し訳ないのですが、どなたかご解答くださる方がいらしたら大変ありがたく思います。

 

追伸 クリスチャン、というのはどのような基準でいうのですか?洗礼を受けているのがクリスチャンなのでしょうか、それとも神様を信じていればみなクリスチャンとなるのでしょうか。

 

回答 浅野 (2005/9/5)

 

Yさん、私が信仰の先輩に「祈りがわかんない!」と質問したときに教えてもらった讃美歌をお送りします。「いつくしみ深い」という賛美歌。

 

1 いつくしみ深い 友なるイェスは
  うれいも罪をも ぬぐい去られる。
  悩み苦しみを かくさず述べて、
  重荷のすべてを み手にゆだねよ。

 

2 いつくしみ深い 友なるイェスは
   われらの弱さを 共に負われる。
   嘆き悲しみを ゆだねて祈り
   つねに励ましを 受けるうれしさ。

 

3 いつくしみ深い 友なるイェスは
   愛のみ手により 支え、みちびく。
   世の友われらを 捨てさるときも
   祈りに応えて なぐさめられる。

 

 

疑問424  Nさん 宮城 (2005/7/20)

 

私は今年の四月からミッション系の私立学校に講師として勤務しています。私と同じように講師として勤めている人がもう一人いるのですが、彼女は持病があり、その病気のせいで落ち着きがなかったり、感情が不安定になったりしてしまう時があります。そのことについては彼女から仲良くなり聞きました。随分忙しい職場で、私は以前にも学校に勤務していたことがありますが、彼女は学校に勤務すること自体初めてで、かなりストレスを抱えていました。前にも書いた病気はストレスがたまるとひどくなってしまい、それがますます感情を不安定にさせてしまい仕事上でミスをすることが多くなっていきました。みんなができることが自分にはできない、と自分自身を責めていたのですが、夏休み中に入院をして来学期には少しでもミスしないように・・・と彼女は入院を決意しました。そんな矢先に学校を離れた飲み会の席で「不満ばかり言ってないで真面目に働け」と酔った数名の教員に言われ、彼女は感情を抑えることができなくなり、学校を辞める方向に今進んでいます。その席で私はそうした彼女の状況を知りながらもかばってやることもできなかったのです。彼女が言っていた、しらふの時に言わずにお酒の席でわざわざ呼びつけて学校の教師がやることとは思えないということが苦しいのです。病気のことをなんとなくしか知らなかったにせよ、彼女の背景にあるものをみようともせずただただ彼女を責めた相手に対しての腹立たしさと、それ以上に色々なことを理解していながら何にもかばってあげることもできなかった自分に腹が立つのです。こうした気持ちはどのようにしたらよいのでしょう??なんだかうまく言えなくてごめんなさい。

 

回答 浅野 (2005/8/8)

 

Nさん、こんにちは、今回のことは、あなたにとっても、その講師の方にとっても、とてもつらい経験でしたね。私立学校のことを私はよくわかりませんが学校に勤めるには、きっと教員免許などが必要だろうし一朝一夕の勉強でとれるようなものでなく、たぶん何年間も勉強して、その努力が報われて、あなたもその講師の方も就職できたんだろうと思います。

 

その職場での、今回の出来事は、その講師の方はもちろん、その講師の方の事情を知っているあなたもショックなことだったのですね。お酒は、良くも悪くも、人々の口を軽くします。仮にその講師の方に「不満ばっかり言ってないで真面目に働け」と、いうためだけにその飲み会が企画されたのだとすれば、それを企画した教員の方々には、問題があると思います。新人のうちは当然なれない環境のなかで、新しくいろんなことを学ばなければならないでしょうから、古参のものは、古参のものとして新しい方を多少おおめに見ても、ばちは当たらないでしょうしね。

 

ただ私が思ったのは、上記の教員の方々の発言は偶発的な事故だったんじゃないかということです。わざわざ、その講師の方をやりだまにあげるためだけに、飲み会の席までセットしないのではないかと思ったからです。一人の方が、口から、不意にこぼしてしまった言葉に、他の教員の方が「おれも、そう思っていたんだ」みたいに折り重なっていき結果、その飲み会を振り返ってみた時に、まるでその講師の方を責めるためだけの反省会のようになってしまったんじゃないかな。

 

その飲み会で、あなたは、何もかばってあげれなかった自分に腹が立つとかいていますが、あなた自身も今年の4月から勤務とありますので、新人という立場で、今回の状況からその講師の方を守ってあげるには、少し荷が重過ぎるように思います、仮に、あなたがかばってあげたとしても、その講師の方は、やっぱり同じ結論を選択するように思うのです。

 

その講師の方が、なぜ、勤め先の学校をやめるという方向に選択したのか。持病があっては、講師業は無理、と判断したのか、持病があるので、忙しいこの学校に勤め続けるのは無理、と判断したのか、あるいは自分の事情というか持病を理解してくれない職場や同僚と働くのは無理と判断したのか、それとも、とにかくイヤなことばっかりだからこんな生活は続けられない、と判断したのか。

 

わたしが今回の書き込みを読んで思ったのは、きつい言い方ですが、その講師の方は、今お勤めの職場には、むいていないんじゃないかな。無理をするのって疲れます、その講師の方にとって…かなりストレスをためながらでもしなくちゃいけない仕事なのかな、例えば、自分のやりたい仕事と、自分のむいてる仕事があって、その二つがイコールなら何も考えたり決断したりする必要はないんだけど、それが食い違った場合に、その人本人自身が、どっちの生き方を選ぶのか。もちろん今の勤め先以外の学校でなら、講師としてやっていけるかもしれないし、あるいは今の職場に残るかもしれないし、そこは本人の判断なんだけど。

 

その病気が、完治が難しい病気だとしたら、そして精神的な環境が大きく作用するような病気だとしたら、今お勤めの職場に残ることは、長期的に見た場合、リスクが大きいようにも思います。海の波が岩を浸食していくように、彼女の心が削られるよりも、今は苦しくても、名誉の撤退をした方が、いい場合もあるかもしれません。

 

さんざん書いておいて言うのはなんですが、結局は、その講師の方自身が、自分で結論を出すべきことで、本人以外は、傍観者にすぎません。もし、あなたにできることがあるとしたら「わたしは、あなたがどちらの選択をするにしても、あなたという人間を支持しますよ」と存在を肯定してあげることじゃないかな。その講師の方が教員の人たちに、存在を否定されているなら、なおさら。あるいは、もしあなたがクリスチャンなら、彼女のためにお祈りしてあげるのも、いいかもしれません。わたしも、一緒に祈らせていただきます。艱難は忍耐を、忍耐は、鍛錬を、そして鍛錬は希望を見出す、そして希望は、失望におわらない、の聖句をお送りします。あなたにとって、その講師の方にとって、今回の艱難が、後から振り返ったとき、自分の人生にとってなくてはならない学びの時、成長の時として、かえって感謝をもって喜ぶことが出来ますように、主を信じるものにとって、すべてのことあい働きて、益となる、すべては、神がオーダーメイドした、その人ならではの、最良の人生のために備えられたことを、確信できますように、また、私たち一人一人が最良の人生を生きるために、犠牲になってくれた、主イエス・キリストに、感謝します、イエス・キリストの貴き御名を通して、アーメン!困難という暗いトンネルを、お二人が無事に突破できますように。

 

 

疑問423 Fさん 埼玉 (2005/6/22)

 

私は二十歳のクリスチャンです。父は牧師で、記憶にある一番初めの場所は神学校の家族寮という、生まれたときからキリスト教一色の環境でした。何の疑問もなく教えられることはすべて正しいことと信じきっていました「恋人を作ってはいけない」「お酒を飲んではいけない」「カラオケに行ってはいけない」「テレビを見るのはよくないこと」という環境でした。「友達を教会に連れてきなさい」「クリスチャンとして証になるように」このようなことを「しなければならない」という思いに駆られて、でも、クラスの中でたったひとりのクリスチャンという環境で勇気がなく、でも、しなければ・・・と苦しかったのです。友達に恵まれ、本当に楽しくても、どこかに乗り越えられない壁がありました。本当に、心から「平安」というものがほしいと思っていました。好きな人ができても、付き合うなんて論外でした。告白されたとき、私はクリスチャン以外の人とは付き合わないからという理由で断りました。でも、19歳のとき、アルバイト先で出会ったノンクリスチャンの人を好きになりました。話したり、メールしたり、一緒に買出しに行ったり、毎日毎日楽しくて、自分を好きになってもらいたくて、でも、こんなことしていてはいけない、付き合ってはいけないという思いが常にあり、毎日苦しくて仕方ありませんでした。でも、どうしようもなくて、あるとき自分の思いをその方に伝えました。そして、付き合うことになりました。それから毎日毎日苦しくて苦しくて、キスしたり、抱きしめられたりするたびに罪悪感でいっぱいになって、何度か別れてほしいと伝えました。でも、彼は、私のことを本当に、愛していてくれて、抱くこともキスもしないけど一緒にいてくれると言ってくれました。でも、付き合っていくうちに今まで「こうだ!」と思ってきたことがよくわからなくなってしまって、ノンクリスチャンの人と付き合ってはいけないの?クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきなの?聖書の基準もなんだかよくわからなくなってしまって、彼とは体の関係もあります。もう、自由に、枠を飛び越えて、どこかでどうでもいい、というような気持ちになっています。どうすべきなのでしょう。彼のことが好きです。一緒にいたいです。でも、神様の選んでくださる方が一番間違いないとわかっているし、そうでないと安心できないのです。彼は自分の手で取った人なのだと思うと不安です。

 

回答 浅野 (2005/7/3)

 

Fさん、こんにちは。あなたの書き込みを読んでわたしが思ったのは、あなたは、Fでは、ないんじゃないかな?あなたの文章を読んで、わたしはあなたのとっても素直な人柄に感心するし、人を好きになることは、人間の自然な感情だと思いますよ。

 

今お付き合いされている方が、ノンクリスチャンでも、大丈夫!だってノンクリスチャンということは、これからクリスチャンになる可能性があるということだしね、あなたの生き方を通して彼に伝道してあげればいいしね、それでもし彼がクリスチャンになったとしたら、すばらしいことだし、もしならないにしても、あなたの信仰や考え方を理解した上であなたという人間を心も体も含めて愛してくれるなら、聖書にあるように、逆らわないものは、味方、ですしね、味方、味方、味方は大切!それに生まれた時からクリスチャンの人はいませんよ、みんな始めはノンクリスチャン、罪悪感なんて、持たなくて、いいんだよ。

 

あなたの育ってきた環境を考えると、とても恵まれていると同時に、とても大変だったと思います。牧師は信徒を束ねる存在ですから、信徒の見本となるようにとても厳格な道徳心というか倫理観をもっている方が多いです。私の知り合いの牧師の方でお酒と製造方法が似てるからだったと思いますが、みりんを一切口にしない方がいます。普通の信徒がもっている倫理観よりも厳しい倫理観の中に、小さい時から育ったことはたいへんだったと思います。

 

たぶん、あなたのお父さんだって生まれた時から「恋人を作ってはいけない」「カラオケにいってはいけない」…というような倫理観をもっていたのでなく、きっと神を信じて牧師になろうと思って、自分を律するためにがんばって自分自身で取捨選択してあなたが、例であげたような倫理観を持つに至ったのだと思います。本人やあるいはお母さんは自分で決めたことですし、たぶんそれを体験してダメだと思ったのでしょうから(例えば、テレビを見たことがないのにテレビはダメだとはいえないと思います、ダメなのには理由があって、その理由が体験として頭に焼き付いて倫理観になったと思うから、もし「○○さんがいったから」とか「○○と書いてあったから」というのが理由だったら、自分を説得する理由にはいいかもしれませんが、自分以外を説得する理由としては不十分になってしまいますからね)、当然、あなたが生まれた時からそれらのことが、禁止されていたなら、あなた自身が体験して、なぜそれらのことがダメなのか体験し考えることができないと思いますし、違和感がでてきてしまうのは、しかたないんじゃないかな、だって。

 

あなた自身がそれまでもっていた倫理観は、お父さんがもっている倫理観そのものをそのまま受け入れていたんだと思います。でも、あなたは、お父さんとは、別の人間なんだし、そろそろ自分の倫理観というか価値観をもっていい年頃なのかも。

 

聖書の基準について。プロテスタントって、なんでいろんな教派があるか、知っていますか?それは聖書をどう解釈するかによって、捉え方や読み方に違いがあるからです。つまり聖書の基準ていうのは、教派によってもちろん違うし、もっといえば牧師・信徒一人一人違います。私はクリスチャンの友人が何人かいますが、みんなそれぞれの倫理観をもっています、それはちょうど国々によって法律に違いがあるように。

 

例えば警察法で比較すると、日本では警察官は銃をもっていますが、イギリスでは警察官でも銃は持たず、警棒だけです、アメリカはというと警官だけでなく、国民が銃を持つことは当然の権利です。

 

じゃあどれがいちばんいいんだろう、優れているんだろう?ある意味近代の歴史というのは、それを追い求めていた時代だったんだと思います、でもね、現代は、どれがいちばんいい…ではなく、どれもみんなすばらしい、それぞれ一人一人がそれぞれ自分らしく生きれることが、一番すばらしいという、価値観の時代です。お父さんのもっている価値観ももちろんすばらしい、でもあなたが自分自身を見つめることによって育ててゆく価値観も、同じくらいすばらしいんですよ。

 

それからキリスト教について。他の宗教とキリスト教の大きな違いは、個人的意見ですが、自力救済か他力救済かだと思います。たとえば仏教は修行をすることによって悟りを見出します、自分で修行をして。それに対してキリスト教は、2000年前キリストが全人類の罪を身代わりに背負って十字架にかかった、つまりあなたの罪もすでにキリストが2000年前に代わりに償ってくれているのです、あなたはただ、キリストが救い主であると信じれば、それで信仰としては完成なのです。

 

たばこをすう人間よりも、吸わない人間の方が、よいのかもしれません。お酒を飲む人間より、飲まない人間のほうが、よいのかもしれません。でもね、聖書にあるように、神の前に人間が立ったら、義人なし、一人もなし、神の視点から見れば、みんな結局罪人にすぎない。

 

キリスト教の信仰で一番大切なものは、愛です。天地創造の神がイエス・キリストをこの地上に送って人々に示したのは、聖だけれど恐れの対象でもあった神が、実は同時に愛の神であり許しの神であることでした。聖書にあるように、愛がなければ、ないに等しい。聖書にあるように、いつまでも残るのは、信仰、希望そして、愛。その中で一番優れているのは、愛です。倫理観や価値観を重視するあまり愛が置き去りにされてしまっては、もともこもありません。

 

三浦綾子さんも「信仰は、道徳ではないんですね。『私が悪かったです』といって神の前にひざまずく、そして安らぐ…」というように著書「明日のあなたへ」にあったと思います。

 

あなたの求めている平安が、私は三浦綾子さんの本を通して、あるいは聖書を通して、与えられることを祈っています。この場を借りて、あなたにコリント信徒への手紙1の愛の章をお送りします。

 

それから、あなたは純粋に彼を好きになったんでしょう?遊びで付き合おうとか、肉体関係だけを求めてとか、そういった、不純な動機で、お付き合いしているわけでないんだから、苦しんだり罪悪感をもったりしなくても、いいんじゃないかな。もしもあなたが本当に彼を心から好きになったとしたら、その想いに主の御心(選択)が宿っているかもしれないんだし。祈りを通して、主に聞いてみたら、いいかも。意外と「これは自分で選択した!」って思っても、そこに実は主の御心があったなんてこと、けっこうあるよ(それは年月が過ぎて振り返ってみてはじめてわかったりするけど)。

 

それから体の関係について。この点については女性の方が圧倒的にリスクが大きいですので、もしもの場合についてきちんと話し合っておいた方がいいと思います(もし妊娠した場合の話です)。その彼が本当にあなたを好きかどうかわかりますし、彼が結婚まで視野に入れて、あなたを愛してくれているか、わかりますので。

 

結び言葉に。今回のことは、あなたにとってはとっても大変なことだったと思います。でも、あなたの人生には、アンコウと同じで、捨てるようなところはない。神様が、きちんとあなたのためにオーダーメイドしてくれた人生なんだから、愛そのものの神が備えてくれた人生なんだから、今回のことがあなたの目にプラスに見えても、マイナスに見えても、キリストをしんじるものにとって、すべてのことはあい働きて益となる、すべては最善のために起こるんですから、祈りつつ、あなたが主を信じて生きていけますよう、祈って結ばせていただきます、あなたと彼、そしてそれぞれの家族を守り導いてください、イエス・キリストの貴き御名を通して、アーメン!あなたが、今回苦しんだ経験を通して、人を助けることができる日が、きっと来ますよ。

 

 

疑問421 Jさん 京都 (2005/5/12)

 

初めまして、京都で信仰生活をする、神様に出会って3年の23歳の学生です。私の通う教会は、韓国系で信者も大部分が韓国人留学生です。韓国人牧師による韓国語の説教を聞いています。

 

最近とても疑問に思うことがあります。

 

他の宗教やそれを信じる人に対して排他的だという事です。説教や普段の会話で「仏教は悪霊に満ちている」と言ったり、「イスラム教は仏教よりもっと、たちが悪い」と言うのです。牧師いわく、インドネシアで地震や津波が起こったのはイスラム国家であるからだそうです。私は神様を信じます。神様を賛美するのは大好きです。だけど考え方の異なる人を否定し、蔑むのは耐えられません。神様の娘である私が、他の宗教の神とか偶像を拝んだら、それは問題でしょう。でも異なる考え方や信仰にも敬意を払うべきだと思うのです。

 

一般の信者が言うならまだしも、牧師の説教にはある程度の影響力があります。私にはこの牧師の言葉が、ひいては差別や偏見をも助長するような気がしてなりません。皆さんは他の宗教の事をどう見ていらっしゃいますか?

 

それと、私は海外の色々な文化に興味があって、洗礼を受けた後もお寺やモスクに観光に行き、建物の中にも入りました。モスクでは、スカーフ等を借りて髪や体を隠して。クリスチャンとしては問題行動だったでしょうか。

 

回答 浅野 (2005/5/19)

 

私はJさんの、考え方・感じ方で、いいと思いますよ。

 

神も、多様性をケンカのために備えたのでなく、違いを互いに尊重できる人間にするために、備えてくださったように思いますし。

 

信仰って比較できるものでないと思うし、だってそれは、神(あるいは仏)とその人自身の関係だから、他人とその人を比較したって意味がないですしね。

 

私たちキリスト教徒が他の信仰を持った人との関係において、目指すべきは、その人の信仰を尊重してあげることだと思います。戦前は国家神道が事実上の国教として、日本にありましたから、戦前はそのほかの宗教は虐げられてきました。戦後、何のために憲法20条に信教の自由をもうけたのかといえば、一人の人間にとっては絶対的にいいと思う宗教でも、ほかの人にも絶対いいとは限らないことに気がついたからだと思います。

 

20世紀初頭のアメリカの小説にこういう言葉があります。「私は、君の言うことには、反対だ。だが君がそう言う権利を私は命がけで守ろう」人権思想の根本である個人の尊重が、よく現れているフレーズだと思います。自分の考えも大切だけれど、相手の考えも同じように大切。

 

洗礼を受けたあとのお寺やモスクのこと…スカーフを着たことについて、私は問題ないと思いますよ。その国の人々の文化や風土や信仰を尊重する意味での行動だと思いますし。マザーテレサもサリー着ていたしね。以前NHK主催の外国人留学生弁論大会でオーストラリアの留学生(たぶんクリスチャン)が、四国のお遍路さんを日本人と同じ格好してまわったときのことを話していて、Tシャツとジーパンで歩っているときは、自分はその空間で異質な存在だったけど、日本人と同じ格好をすることによってお遍路を歩く人々と土地風土文化と一体になる体験ができたっていっていました。周りを歩く日本人たちが、Tシャツとジーパンをきて歩いていた外国人の青年が、かさや着物をきて杖を持った姿で現れたとき、態度が変わって友人のように接してくれたっていうけど「ああこの外国人もお遍路を信仰しているのか!」って思って友人のように接してくれたんで、なく、自分は日本人でないけど四国のお遍路という文化習慣風土を大切に尊重してうけとめたいっていう、姿勢が、地元の人々の胸に響いたんだと思うし…。

 

違う信仰を持っていても12色入りのクレヨンのように互いを尊重できるような社会になるといいですね。

 

 

疑問415 Hさん 長野 (2005/3/13)

 

私は毎週日曜日に教会に通って、毎週牧師さんの説教に感動しています。それなのに、あるものにはまってしまって、抜け出せません。それは「占い」です。聖書にには、「人はしるしをほしがる」と書いてあります。わたしもそのなかの一人になってしまいました。

 

頭ではばかげたことだと、思って、拭い去ろうとしますが、書店に行くと占いのコーナーでつい、足を止めて、関連の書物に見入ってしまうのです。苦しいです、でもやめることができません。

 

どうしたら、占いから足を洗うことができるのか教えてください。

 

回答 浅野 (2005/3/22)

 

まず、占いって、どんなものでしょう、例えば星占い、人間を12通りにに分けてみて、今週は双子座よりみずがめ座のほうがいいとか、ランキングがしてあったり。あるいは干支で人間をやっぱり12通りに分けてみて、正月なんかに読んで今年の事業は成功するとか、大病に注意とか…いいことが書いてあっても悪いことが書いてあっても…干支なんだからクラスの連中みんな今年大病するのかよ? と友人と学生時代話したことを思い出します(結局この大病した者はいなかった)。あと血液型占い、話がそれるんですが、外国に行くと血液型占いってあんまり、流行らないらしいんです。なぜなら、一つの民族が多数をしめる国家だとある1つの血液型に偏ってしまうとのこと、偏ってしまうと占いにならないようなんですね(話はそれますが、日本人のミトコンドリアDNAを調べると、日本人はいろんな民族の血が混じっているのが分かるそう、実は潜在的多民族国家だから、血液型占いが成立する)だいたいメジャーな占いって、このくらいでしょうか?

 

次に、占いをしている人は、どんな人でしょうか。あたりまえですが、占い師です、占い師は、神様でもなければ悪魔でもありません、人間です。占いではありませんが、競馬の予想やアカデミー賞の予想、あるいは1年前の自分は今日の自分を予測できたでしょうか。毎年テレビCMなんかで今年のアカデミー賞最有力候補!とかかいてあった映画が無冠に終わったり、あるいは地震の予知なども、ここの地方は地震が来る!といわれている場所なのに、さっぱりこなかったり。これらはつまり悲しいことに、人間には、一寸先すら分からないことを、示しているように思うのです。どんなに有名な占い師でも、残念ながら未来を見る権能(力や能力のこと)を授かっている人って、いないんじゃないかな。オリンピックの時話題になったことですが、細木さんがヤワラちゃんのことを、絶対金メダルとれないっていって…でも、金メダルしっかりととりましたよね。でもそれをもって細木さんが番組を降板するなんてことなかったし、そんなにバッシングしないのは、みんなうすうす未来のことなんて分かるわけがないって感づいてるからなんじゃないかな。一寸先もわからない人間が、一寸先も分からない人間に根拠もなく(あるいは水晶球が光ったとか、タロットカードの天使のカードが出たとか、なんとか)示すものが、占いなのかも。このHPのらくがきのコーナーに去年書き込みのあった絵の話じゃないけど(盲人の案内をする盲人の絵の話、道案内をしてくれている方も目が見えないから、目の前の地面に大きな日びわれがあるのに、気づかず、前へ進んでいる)

 

それに冷静に考えてみれば、占いで、例えばタロット占いで、何か良くないカードが出ても、そのカードと実際の出来事との間には、関連性って、ないような気がする。そのカードが良くないって決めたのも所詮一寸先も分からない人間だし。人間には未来が見えないから、それを暗示している何かを求めてしまうんだと思います。それを求めてしまうのはなにもHさん、だけではないし、自然なことだと思いますよ、ただ、占いに自分の行動やなんかを支配されてしまうと困るので、もうちょっと書かせてください。日本人を12通りに分けて、この星座は12星座の中でいちばん今日はラッキー!などとテレビで出た星座の人々のなかでもその日に大けがをする人もいるし、いちばんアンラッキーとなった星座の人でも人生でまたとない幸運にめぐり合う人もいるはずです。占いは当たらないってことをいちばん理解しているのは、実は占い師の人なんじゃないかな、だってもしHさんが雑誌かなにかで連載をもつ占い師になったとして、12星座占いをして記事を書いたとします。たとえば○○座の人は単純計算して1億2千万人ちゅう1千万人いるわけです。仮に水晶球か、タロットカードかトランプか何かで、今日最悪な運勢とでても、その1千万人全員が最悪になることってありえないと、かんがえるんじゃないかな。

 

じゃあなんで聖書は、占いはだめ、といっているんだろう。個人的に思うのは、占いをみることによって、祈らなくなってしまうからなんじゃないかって思います。例えば自分がある問題(人間関係)で悩んでいるとします、クリスチャンにとっての特権は、祈りを通して神様と相談できることだと思います。本来なら、祈りを通じて解消すべき問題を、占いはあっという間に具体的に解決してしまいます。自分の該当する星座かなんかに、悪い縁はないほうがまし…とかかいてあったら、それが終局的な答えになってしまいます、一度もHさんに会ったことのない人が、断定形で決めつける…それが占いなんです。神様に祈りを通して「主よ、ある方との人間関係がうまくいきません、お互いに傷つけあってしまいます、御心にかなえば解決方法を示してください、また御心にかないませんでしたら、どうぞ別の道をお示しください」と祈り、そして考える時間を奪ってしまいます。祈りの対象は全知全能の神です、祈りとは、神との人生相談です。占いはファーストフードのように短時間で答えが返ってきますが、それが正解かどうかは、不明です。祈ること、それは本当に良くも悪くもスローフードです。心の健康にとっておいしく、こころにやさしいのは、祈りの方ではないかと個人的には思います。

 

毎週日曜日に教会に通っていらっしゃるとのことですので、たぶんHさんはクリスチャン(または求道者の方)と思います。イエス様は、信じる者が一人もこぼれず滅びないように、十字架にかかりました。それはイエス様が、人類を、愛しているがゆえに十字架にかかった、というより、24色のクレヨンから1色でもなくなってしまったら、それは24色のクレヨンでない、ゆえにどの色も愛(いと)おしいというような思いで十字架にかかったように思うのです、イエス様が生きていた時代だけでなくその前の時代の人々もその後の時代の人々もすべての人の罪を背負ったからこそ、神の子を殺すほどの罪なんだと思います。これは分かりにくい例えになってしまうのですが、法学の概念に国民主権という言葉と人民主権という言葉があります、国民主権は日本国民1億2千万人という集まりに対して、主権があるという考え方で、人民主権は一人一人の個人に主権があるという考え方。迷い出た羊の例えにあるように、1匹くらいどうなったっていいや、とはイエス様は思わず、わたしの大切な大切な羊が、一匹も、迷いでてしまったと思われるのでしょう、そしてその1匹のためにだけでもイエス様は十字架にかかられると思います、だって人類を愛したのでなく、人間の一人一人を愛した方なんですから。

 

当たり前だと、言われるかもしれませんが、Hさんのこともイエス様はそのように愛してくれているのです、そしていままでも愛をもってHさんの人生にいろいろなものを備えてくださったと思いますし、これからさきの未来にも、同じように愛をもって必要なものを必要な時に用意してくれているのだと思います。わたしの個人的にいちばん尊敬する牧師の言葉なんですが「すべては、最善のために起こる」イエス様はHさんを苦しめようと思って今回のような悩みをあたえたのではなく、Hさんにとって、Hさんのいちばんすばらしい人生にとって必要だからこそ、今回の問題を備えたのだと思います。まして、今回の問題でHさんが苦しんでいるならば、この問題を備えたイエス様はもっと苦しいでしょう、ちょうど予防接種を受けて泣いているわが子を見て、ああ自分が変わりに苦しみたい、と思っている親の心境でしょう、でもその予防接種は、わが子が受けなければ意味がない、そんな気持ちで、イエス様もいると思いますよ。Hさんが悩んだり苦しんでいることをイエス様は知っているんだし、誰かに解決方法を示してほしいような時は、占いをみるよりは祈った方が良いかもしれません。

 

未来は神の領域、という言葉がありますが、この言葉は、クリスチャンにも、クリスチャン以外にも当てはまると思います。ただ、未知の未来に対する受け止め方は、クリスチャンとクリスチャン以外の方とは、大きくちがっていると思います。それはなぜなら、クリスチャンは、神がほかならぬ自分を常に愛してくれていることを知っているから、自分の未来に何が起こるにせよ、神が愛をもって備えてくれるんだから、大丈夫!と思えること。そう思えると、未来について人間に示して(占い)もらわなくても、未来は愛そのものである、神のもとにあるんだ、だから何も恐れることはない、と考えれると思います。

 

…それから占いに書かれたことに過度に依存しなければ、占いを見ること自体はそんなに気にしなくていんじゃないかな、占いを読んでも、それを信じなければ、占いになんないんだし。占い=ダメと考えることによって、もしHさんが苦しんでいるなら、占い=ダメという考え方自体を捨ててしまってもいいかも。それに、雑誌に占いがかいてあったとして、ふと目で追ってしまうクリスチャン…いっぱいいるとおもいますよ(私もそう)祈るべき時間を、占いを見る時間に費やしてしまうのであれば、問題ですが(だってそれは信仰より占いを優先することになる)、そうでないなら、そんなに気にしなくてもいいかも。

 

あるいは、占いをやめる手段として、一度本屋さんにある占いの載ってる雑誌を見れる限り見てみるというのも手かもしれません、意外と好き勝手なこと書いてるな…と思うかも。うらないって、ナンセンスですからね。以前、ネットで占いのサイトを作って大もうけした人の話を読んだ事があって、なんか占いについて研究してた人なのかなと思って読んでいったら、ズブの素人だった(笑)ただ、文章がうまい人だったので流行ったんでしょうね。その人が「占いなんてあったるわけないじゃん!あたったとしても偶然に決まってるジャン」とぶちゃけて書いていたのを思い出してしまった、私でした。

 

 

疑問413 Tさん (2005/2/13)

 

異端か正統かってどうやって見分ければいいのですか??そもそもどれが正しいとかってあるんでしょうか…?

 

一度あるきっかけで教会へ行ってから教会の方と仲良くなり相談したりメール交換などしていたのですが、やたらと毎週教会に来るように勧誘されます。私からすれば、とてもよくしていただいているのですが、なんだか宗教勧誘されているよう
で、強制的に来させられている感じで最近苦痛になっていきました。こんなにしつこく勧誘してくるところって怪しいですか?その教会は韓国人が多いです。しかしエホバ、統一教会、モルモンではありません。福音派と書いてありました。

 

私はキリスト教に接して1年ぐらいで知識が乏しいのでどなたか教えていただけるとありがたいです。

 

回答 浅野 (2005/2/24)

 

まずどれが異端かについては、基本的には、Tさんの考えていらっしゃる控除法的な考え方(エホバの商人さん、統一教会さん、モルモン教末日聖徒キリスト教さん、以外はキリスト教)で問題ないと思います。

 

どれが正しい(正統)かについては1.三位一体を信じていること(神は三つの形でこの世界に存在すること…例えば地球上には水という物質は、気体、液体、固体、という形で存在しますが、それと同じように、この世界に創造主は、神、神の子、精霊、という形で存在する)2.ちゃんとした聖書[例えば新共同訳、共同訳、新改訳]をつかっていること(勝手にあとから加筆されたものは×…上記3団体が使っているものは自分たちの主張を通すために加筆や修正が加えさせられています。この2点について問題なければ、大丈夫だと思います。地上には多数の教派が存在しますが、その教派の違いはチューリップの花の色・形の違いのように、神が与えてくれた多様性だと思います。服のサイズだって、1サイズしかなかったら、そのサイズぴったりの人はいいでしょうけど、その他の人はみんな困ってしまいます。Tさんにとって、サイズのぴったり合う教会を探してみてください。上記の1.2.を満たしていれば、それらの教会はみんな天国という1つの教会へ続いていますよ。

 

あと当たり前だと言われるかもしれませんが、牧師や神父と呼ばれている人が「実はわたしがキリストの生まれ変わりなんです」というとか、「この人がキリストの生まれ変わりなんです」というとか、「ああ、イエスの十字架は、失敗です、何の意味もありません、キリスト(救い主という意味)?そんなわけないでしょう、はは」という教会はキリスト教の教会ではありません。キリスト教の皮をかぶった新興宗教でしょう。基本的に新興宗教って、仏教系を装ったものが多いみたいなんですが(仏教徒日本多いし)、キリスト教を装ったものもあるようです。そこいらへんの判断は、Tさんの感覚や常識、あるいはどなたかに相談して、確認する方がいいと思います。

 

あと、毎週教会に来るように勧誘される件について。キリスト教の教会だと、毎週日曜日礼拝をやっていますし、礼拝は聖書の順番どおりにすることが多いので、理想としては毎週出るほうが、牧師の話もキリスト教についてもよく分かると思います。現実問題として考えてみると、私は25歳なんですが、仕事の都合の関係や家庭の事情なんかで1ヶ月の日曜礼拝全部出れたことって、1年近くないです。礼拝に出れるのは、ここ最近月に1回から3回くらい。Tさんは、求道者(キリストを信じたいと思っている人、まだ洗礼はうけていけていない人)ですので、礼拝に行くことができる日(あるいは行きたいと思った日)に行くという形でも、全然問題ないと思いますよ。

 

それからTさんが最近、なんだか宗教勧誘されているようで、強制的に来させられている感じで最近苦痛になっていきたことについて。話がちょっととぶんですが、教会へ来る求道者の方は、2タイプいて「声かけてほしいタイプ(いろいろと世話をしてほしいタイプの人、できれば教会へ来るように誘ってほしいタイプ…私も、です)」の人と、礼拝を通して神様と話に来てるんだから信徒の人には話しかけないでという「声かけてほしくないタイプ」の方がいるんです。来る人の割合でいうと、半々だと思う。つまり信徒としては、この人はどっちのタイプか判断に迷いながら、話したり誘ったりしてたりするんですね。どちらかというとTさんは、あんまりかまってほしくないと思ってるタイプかな?その時には誘ってくれる人に「自分はまだ求道者だし、毎週教会へ行くのでなく、自分でこころから行きたいと思ったときに、行きたい。自分は、習慣としてキリスト教徒になりたいんじゃない、本当にこころから信じてキリスト教徒になりたい。ほんとうにキリストが救い主か考える時間を作るためにも、毎週はやっぱりいけないよ」などといってみたりするのも手かもしれません。

 

あるいは、そのTさんを教会へ誘ってくれる人は、Tさんと同世代でしょうか?ひょっとすると同世代で一緒に教会へ行く人ができて、その方は嬉しくて舞い上がっちゃってるのかも、しれませんね(わたしも、舞い上がっちゃう方なんです)。私がTさんの文章を読んで思ったのは、その方は、勧誘…というより誘ってくれてるんだと思いますよ。福音派のプロテスタント教会っていっぱいあるし(わたしの行ってる教会も、たしか福音派だったような)。韓国はキリスト教徒と仏教徒の人口割合が同じくらいある国です(いうなりゃキリスト教先進国)。すばらしい牧師、信徒、お話、がたくさん韓国という国に人に、あります、国籍や人種は、あまり気にしなくても大丈夫と思います。

 

もしTさんが、どうしても今の教会がしっくりこないというのであれば1度別の教会の礼拝に参加してみるのも手だと思います。クリスチャンは旅先などで、別の教会で礼拝することもよくあるし。自分の教会について、信徒の方について、見つめなおすには、いいかもしれません。どっちがTさんのサイズにあうか。教会って意外と個性があるんですよ。

 

つけたしですが、わたしは今回のTさんの書き込みを読んで「うらやましいなー」と、思いました。書き込みから判断するとTさんは日曜はお仕事お休みでしょうか?わたしは今諸事情でこれから半年ほど日曜日は休みがないので、礼拝にいけません。いけなくなるとけっこう礼拝って飢えるものですよ。あと疑問397番のサマンサさんのように(私もそうだったです)、教会へ誘ってくれる人(同世代)がいるって、すごくうらやましいことです。Tさんは、ひょっとするとものすごく恵まれた求道者環境にいるのかもしれませんよ。

 

なお、どうしても、この教会怪しい、と思ったときはmiuraayako☆pksp.jp の☆を@にしてメールで、その教会の名前や電話番号等教えてくだされば、私が電話やインターネットを使って調べてみます、私一人の主観では不安なのでその時は知り合いの3人の牧師(それぞれ別々の教派です)に意見をもらいながら進めます。ただ、今ちょっと忙しいので2週間前後かかると思います。

 

求道しはじめて1、2年は迷うことや疑問に思うことがたくさんあると思いますが、答えは聖書にあるように、求めれば与えられます。もしTさんがクリスチャンにならないにしても、今回の経験はTさんの人生にとって必ずプラスになりますよ。主が、Tさんに、よき解決を与えてくださいますことをここに祈って、結び言葉にします。

 

疑問411 Yさん 兵庫県神戸市 (2004/10/14)

 

皆さん こんにちは。最近キリスト教にとても興味があります。ですが、教会に行くのには何となく勇気が出ないというか、まだ、気がすすみません。聖書は読んでみたいと思っています。おすすめの聖書があれば教えてください。

 

回答 浅野 (2005/1/19)

 

おすすめというか、カトリックとプロテスタント両方の共同作業として訳された「新共同訳」というものが、一番メジャーな聖書です。ただ、教会によっては「共同訳」を使っているところもあるようです。私の手元にある「新共同訳」は2800円のものです、もっと字が大きいものだともう少し値段がはるようです。聖書は新約聖書と旧約聖書をあわせたもので、一般的には新約聖書から読むほうが分かりやすいといわれています。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまっています、最初の1章「イエス・キリストの系図」については三浦綾子さんが「もし、この記載をみて、『なるほど聖書とはなんとすばらしい本だ』と思った人がいたらお目にかかりたい」と書いています、つまり読んでると眠くなってしまうということ。私個人は、1章最後にある「こうして全部あわせると…」から読みました、なんか牧師がこの書き込み見たら「おい、おい!(^^)/」とつっこみいれられそう(でも2回目読んだときは、ちゃんと読みました、ゆるしてくだされ)あとマタイの福音書(全60ページ)を読んでいて、マタイ福音…読みきれそうにないと思ったときは、マルコ福音(全38ページ)を先に読んでみてください、読みやすいはず。

 

そうですよね、最初は「キリスト教に興味があっても、教会に行くのには何となく勇気が出ないというか、まだ、気がすすみません」お気持ち十分わかります。わたしはいつもこのことを書いてしまうんですが、私の場合1ヶ月前から教会の周辺をいききしていたんですが、入っていく勇気がなかなかわいてきませんでした。最初に教会に足を踏み入れた時、緊張のあまり4月だっていうのに汗だくだくだったことを覚えています。ちなみにほとんどの教会の礼拝は日曜日です。いまは昔と違ってほとんどの教会が礼拝、祈祷会(イエス様にみんなで祈る会)、聖書勉強会(教会によってはあります)、以外の日は、しまっていたりします。もし行くときがきたら左記の時を選んでいくといいと思います。

 

それから、たいていの教会は新来訪者のために、予備用の聖書がおいてありますから、最初のうちは教会へ聖書を持っていかなくても、大丈夫ですよ。賛美歌を歌うための「讃美歌集」は各教派によってそれぞれですが、これもたいていのところは貸してくれます。聖書も賛美歌も、もちろん無料で。「聖書を読みたいので、しばらくかしていただけませんか?」と言えば、1、2週間なら持って帰って読んでいいよ、と言われるかもしれません。

 

Yさんは三浦綾子さんの「光あるうちに」は読まれましたか? キリスト教についてにの、すごく分かりやすい信仰の入門書です。もしまだでしたら、ためしに読んでみてください。なお三浦さんの著書に「新約聖書入門」と「旧約聖書入門」という本もあります。

 

 「キリスト教にとても興味があります」すばらしいことだと思います。仏教やイスラム教にすばらしい考え方や言葉があるのと同じようにキリスト教にもすばらしい考え方や言葉があります。聖書を手にしてしばらくすると、きっとお気に入りの聖句(せいく、と読む聖書の言葉のこと)が見つかっていくと思います、それはYさんが人生の困難にぶつかった時に、後ろで背中をささえてくれたり、あなたを励ましてくれる言葉です。さいごに私の好きな聖句を引用して結び言葉にします。旧約聖書詩編32 8「わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」新約聖書マタイによる福音書18 12「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のこと喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心でない。」一匹の羊とは教会を1度離れてしまった信徒のこと。聖書には例えが多くもちいられていますから、「光あるうちに」「新約聖書入門」「旧約聖書入門」読まれたあとなどに、もっと深く聖書を学びたいと思いましたら、そのときは教会の聖書教室などへ行ってみてください。「へぇー、これは、そういうことを指してたのね」とびっくりすることがけっこうあります、ではでは。

 

 

疑問401 Sさん (2004/7/17)

 

はじめまして、三浦綾子さんの著作で随分励まされて来た30代半ばの者です。突然ですが、今とても悩んでいることがあります。

 

インターネットで知り合ったクリスチャンの彼がいるのですが(メールのやりとりやたまに会ったりなどで1年くらい)教派の違いゆえに、教会の牧師先生や家族から反対されています。最近、付き合っていることを家族に話しました。お互いプロテスタントではあるのですが、どうやら教理的につきつめていくと相容れない部分が多いようなのです。付き合うはじめにきちんと確認しておかなかった私も悪いのですが・・・。同じプロテスタント信仰を持っていれば・・・と安直に考えていたのがいけなかったのかもしれません。彼に私の教派・教会に移ってもらえるようにしなければ、別れるべきだ、と家族からも言われていて・・・自分としては一方的な押し付けになるような気がして迷います。それくらいしてくれなければ、本当に愛しているとは言えないと家族は言います。彼自身はお互いの信仰がどちらが正しいとかじゃなくて尊重していけたらいいのではないか・・・と言ってくれているのですが、家族からすれば安易だ・・と非難されてしまいます。確かに信仰の一致がなければ平安もないのかもしれません。こう、不安に感じること自体、神様の御心に背いているのかもしれない・・・と思ったりします。

 

誰にも相談できなくて、こちらに投稿させて頂きました。いい大人が情けない話なのですが、皆様のアドバイスを頂けたら・・・うれしいです。

 

回答 浅野 (2004/7/22)

 

お二人ともクリスチャンですので、二人で一緒に、この問題の解決を祈ることも有効だと思います。二人の教会は違っても、イエスキリストはこの世界にただ一人、ですので祈りの対象は二人共同じです。地上には教会教派が存在しますが、天はひとつなのですから、主が解決を与えてくださることを望まずにはいられません。

 

最初読んだとき三浦綾子さんの「明日のあなたへ」にある、結婚を両親から反対された方へ綾子さんが書いた手紙を引用しようかとも考えましたが、教派の違いで反対された話ではなかったので、それよりも二人で祈るほうが有効かと思い上記のように書きました。ただ「反対」という問題についての的確な答えがそこにあるので参考になるかもしれません。

 

今回の悩みの解決を、Sさん、ご相手の方、双方のご家族、教会のそれぞれに、主イエス・キリストが与えてくださることを、ここに祈ります、主イエス・キリストの貴き御名を通して、アーメン。

 

 

疑問397 Sさん 宮城 (2004/6/19)

 

はじめて書き込みさせて頂きます。三浦綾子さんの本を読みキリスト教に興味を持ち、教会に通いたいと思いながらもなかなか行く勇気が持てず半年間悩み、やっとの思いで決心し近くの教会へ何度か日曜礼拝へ通わせて頂きました。お説教も讃美歌も私にとって新鮮であり、喜びを感じましたが、なかなか教会のみなさんと自ら話せず、また身近に教会へ通われている方やクリスチャンの方がいないためか、せっかく通い始めましたのに最近は行けず自分の不甲斐無さを感じています。一緒に神様について話したり、聖書を一緒に学ぶ方がほしいとばかり考えてしまいます。「友との交わりを持たぬ信仰は、失われやすい」と三浦綾子さんも書いておられますが、最近その言葉を身に沁みて感じています。また、一生に一度も教会に行かれなくとも、神の御言葉を信じ立派に信仰心をお持ちの方もいらっしゃると伺った事がありますが、意志の弱い私にはそのような自信が持てません。誰にもこの悩みを相談できずここに書き込みさせて頂いた事をお許しください。勝手な事を書かせて頂きましたがどうか皆様のアドバイスを頂けまいしたら幸いです。お願いいたします。

 

(2004/6/27)浅野さん、御回答ありがとうございます。

 

貴方様からの温かいエールの御言葉を何度も何度も読み返しました。貴方様の御経験談とアドバイスを頂け、とてもありがたかったです。人としても信仰についてもまだまだ未熟者ですが、迷い悩みながらも神様の愛、イエス・キリストの愛を信じて、こんな私にも神様がちゃんと与えてくださった大切な大切な信仰の灯を絶やさぬよう生きて行きたいと思います。「希望は失望に終わらない」という御言葉、本当に素敵な言葉ですね。私もここに書込みさせて頂き、浅野さんや皆様からの温かく貴重な御回答を頂け、また新たな希望が持てました。

 

回答 浅野 (2004/6/24)

 

Sさん、大丈夫ですよ。個人的意見ですが一番大変なのは、教会へ入るはじめの一歩だと思います。それを自分の力でちゃんと乗り越えられたんだから、例えればシャンパンの栓がポンと抜けたようなものです、後は神様が、適切な時期に、適切な人をきちんとあなたに備えてくださると思います。

 

教会の信徒の方とも、教会へ通ううちに、だんだんと親しくなりますよ。たとえば第一聖日に私の通っている教会では礼拝の後、みんなで食事をするんですが、箸やおかずをテーブルに並べるときに「あっ! 私並べます」などといって手伝ったり、教会の中で人に会ったらこちらから「おはようございます!」といったり(そういう私が教会へ通い始めたころどうだったかといえば、食事の手伝いは時々してましたが、あいさつは、だめだめでした。ボーとしてる性格なのであいさつの返事さえまともにできませんでした。そんな私でも教会では受け入れてくださってます。今考えても、感謝。だからSさんも大丈夫!)

 

信仰の友についてですが、私の周りに信仰の先輩ならたくさんいるのですが、友(自分の年齢の上下5歳をいうと仮に定義する)はいないので、というか同世代で教会へ来ているのは今も私一人なんです。同世代がいればやっぱり心強いと思いますが、信仰の先輩との交わりは、これからSさんが信仰生活を送っていくという点に着目すれば、信仰の友との交わり以上に有益になると思います。

 

例えば、今回Sさんが書いていられる、教会から最近足が遠のいてしまっている、ことについて、経験していない信徒はほとんどいないと思います。そのことについてアドバイスを求めるのもいいと思います。この提示版で回答してくださった方と同じようにあなたの立場に立って考えてくださる、信仰の先輩がきっといますよ(そうじゃない方も、もちろんいると思いますが、詳しくは「光あるうちに」に)。

 

信じることは、誤解を恐れずにいうと、簡単なことなのかもしれません。しかし、信じ続けることは簡単なことではありません。その点信仰の先輩は、信じ続けてきた方たちですから、信じ続けたものにしかできない回答をしてくださることがあります。それは熟成されたブランデーのような言葉です。飲んだときももちろん感動しますが、その味はずっと記憶に残って、困難や壁にぶち当たったときに、ふと思い出されるものです。三浦綾子さんの言葉が私たちの胸に響くのは、同じ理由からだと思います。

 

それから教会から足が遠のいていることについて「自分の不甲斐無さを感じています」と書いていらっしゃいますが、それはSさんが真剣に信仰を求めている証拠です、すばらしいことです、が、さきに書いたように教会から足が遠のく経験はほとんどすべての信徒が経験することです(私の知る限りでは)

 

個人的意見ですが、わたしはむしろこの遠のく経験は、信仰生活にとって必要な事なんだと思います。毎週欠かさず教会へ行くイコールすばらしい信仰とは、必ずしもキリスト教ではいえないことを知るためにです。三浦綾子さんが「子供のときに夏休みの間、毎日氏神様参りをして学校から表彰された」というような記載があったと思います、例えば仮に、心の中でどんなことを思っていようと、外観的に見て神妙な面持ちをしていれば、それで信仰として神道では成り立ってしまう部分があると思いますが、キリスト教では、そうはなりません。それは形よりも心を大切にする信仰だからです。

 

聖書にあるように私たちの主は、貧しい1枚の硬貨しか持っていないものの捧げた1枚の硬貨を、100枚の硬貨を持つ富めるものの捧げた10枚の硬貨よりも大切にする方です。主は、形でなく心のほうを見てくださっています。ほかにも、律法は人のために定められた、律法のために人がいるのではない、というように形式を重視しすぎることにより、内心が失われてしまうことにならないように注意されていました。

 

これからSさんが信仰生活を送っていく上で、仕事の事情や家庭の事情で礼拝に出れない日や、寝坊してしまっていきそびれてしまう日(私はよくある)も、出てくると思いますが、そんなことは気にしなくても大丈夫ですよ。大切なのは心のなかに信仰の灯あることです。ただまったく礼拝へ出ないとそのうち灯の油がきれて消えてしまいますので、皆勤で出席する必要はないでしょうが、ちょいちょい顔は出すにこしたことはありません。

 

そうしてちょいちょい礼拝に顔を出すうちに上で書いた「すばらしい信仰イコール毎日○○こと」の答えがわかってくると思います。というかわたしは求道2年目なんですが、つい先日この答えがわかりました。きっかけは6月6日三浦光世さんに聖書に三浦さんの好きな聖句を書いてくださいといって「希望は失望に終わらない」と書いていただいたんですが、不思議にその日から聖書を開き祈ることが毎日の生活のなかで習慣として身についたんです。

 

最後に、これから先Sさんが信仰に関することで悩むことがあったら、信仰の友や先輩、牧師や提示版に率直に答えや助けを求めることです。私たち信徒は羊です。羊は寂しがりですし1匹では生きていけません。羊飼いに世話をしていただくことも必要です。ですからSさんが持っている弱さや恐れをそのまま持って羊の群れに加わっていいんですよ。

 

そして私たちの羊飼いは、1匹でもはぐれた羊がいれば残り99匹の羊をおいてでもはぐれた羊を探す羊飼いです。聖書にあるように、1匹の羊のために自分に命を犠牲にしてくれる羊飼いです。その羊飼いを信じてSさんがこれからの人性を歩んでいけるよう、ここに祈って結び言葉とします。応援してますよ!

 

 

疑問394 Nさん 京都 (2004/4/18)

 

日本キリスト教団、キリスト伝道隊などありますが、どう違うのですか?

 

回答 浅野 (2004/4/24)

 

私の知っている範囲で、回答させていただきます、といっても、記憶を基に書いていますので、事実と違う部分がありましたら、教えてください。

 

戦前戦中に当時の日本政府が、戦争をするために人々を統制しやすくするのに各宗教をできるだけ1つにまとめることを行いました、仏教もいろいろある宗派を無理やり1つに、キリスト教は、カトリック(天主公教会、ギリシャ正教会)とイギリス国教会(聖公会)以外のものは新しく作られた「日本キリスト教団」という器(うつわ)にまとめて押し込められました。

 

戦後「日本キリスト教団」のなかでの活動でなく、もとどうりに自立して活動したいと思う教会が、次々と独立しました。しかし、日本キリスト教団という器で活動したい人々もたくさんいました。後者が日本キリスト教団です。

 

キリスト伝道隊のホームページで調べてみましたが、戦前からある教会がありましたので、たぶん戦前戦中は日本キリスト教団として活動された前者の方であると思われます。

 

私が書ける両教派の違いについては、このくらいです。キリスト伝道隊の礼拝へ出たことがありませんのではっきりいえませんが、信仰告白や礼拝の形式、月定献金など、ちがうところを探せばいくらでも出てくると思います。誤解を恐れずにいうと、あまり大切でない部分については、それぞれの教会・教派違って、大切な部分については同じといえると思います。

 

たとえば三浦さんが「光あるうちに」でおっしゃっているキリスト教会の探し方で「イエスは、本当に救い主でしょうか、キリストでしょうか」という質問に「そうだ」と答えれない教会は、キリスト教の教会ではない、外観はそう見えても断じて違う」というような記載があったと思います。

 

このことが一番大切なことなんだと思います。

 

 

疑問393 Rさん 広島 (2004/4/16)

 

今はまだクリスチャンではないのですが、三浦綾子さんの本にいつも助けられてきましたので、いずれは・・と思っています。キリスト教にも色々な宗派(?)があるとききました。できましたら三浦さんが通われていた教会と同じ宗派の教会に行きたいと思っています。その教会をどうやって探したらいいのか教えて下さい。

 

回答 浅野 (2004/4/17)

 

三浦綾子さんが所属されていたのは、日本キリスト教団という教派です。

 

プロテスタントとしては、日本最大規模の教会数・信徒数をもっています、そのため全国各地に教会があり、さきほど検索してみたら、広島県にも33教会あるようです。日曜日の朝10:30から礼拝をやっているところが多いようです。

 

なお、例えば近くに日本キリスト教団の教会がなかったり、行ってみたけど自分に合わないと思ったり、牧師に傷つくことを言われたときは、他の教会へ通うことも大丈夫だと思います。

 

教会はどれも天へと続く出張所ですし、昔と比べるとカトリック・プロテスタント間の垣根は低くなっていますし交流も活発です。私の信仰の先輩もカトリック教会の夕拝に主席されたり、また別の方の娘さんはパプテスト教会で洗礼を受けましたし、また別の方は日本イエス・キリスト教団(最近知ったんですが日本キリスト教団とは別の教派とのこと)にご兄弟が通われてたり、そしてなにより募金活動などはいくつもの教会が垣根を越えて共同でやってたりしています。

 

また牧師も人間ですし、私たちも人間ですから、合う合わないは、やっぱりあると思います。基本的に教会は、神社やお寺と違って毎週日曜日にみんなが集まって、礼拝をします(と、いっても毎週通うのは仕事の事情で難しいですし、みんなできる範囲で出席しています、わたしも月1回の時もあれば、3回の時もあります)ですから、かよってると気がつけば自宅職場の次くらいに長い時間を過ごすことになります。

 

無理をすることは、短い時間ならできますが、長い時間は、できません。相性がいい教会は、やっぱりあると思います。

 

三浦さんの「光あるうちに」に求道者(クリスチャンになりたいと思った人)へ宛てたメッセージがあったと思います。「騙されたと思って、3年間教会に通ってください。繰り返し聖書を読んで、祈ってください」たぶん一番大変なのは、教会へ入る時の第一歩だと思います。周りに教会へ通われてる方が、いらしゃれば別ですが、私の場合、学生時代の親友は神主ですし父の実家は江戸時代のお坊さんのお墓をお寺でもないのに守ってるしクリスチャンはまったくいませんでしたので、ほんとうに、大変な一歩でした。でも慣れてしまえば、この時のことは笑い話にできます。

 

それから、キリスト教とはキリストを救い主と信じる教えです。ですのでキリストの十字架は失敗だったとか…そういったキリストに対する捉えかたが大きくちがっているエホバの証人(もみの木)さん、末日聖徒キリスト教(モルモン教)さん、統一教会さん、の教会は、あなたが三浦綾子さんが信じたキリスト教を求めているのであれば、お勧めできません。

 

最後に、私もあなたと同じように三浦綾子さんの本を通して、キリスト教に興味を持ち、求道者となった者です。私も三浦さんと同じ教会がいいという理由で、今の教会へ通うようになりました。あなたのこころに芽生えた信仰の芽が、すくすくと育っていくことを祈っています、アーメン!

 

おまけ、というかちょっと宣伝させてください。6月に福島県郡山市にある日本キリスト教団郡山教会に、新会堂完成記念で三浦光世さんがいらしゃる予定です。お近くの三浦綾子さんファンの方は、ぜひどうぞ。

 

 

疑問387 Yさん 福島 (2004/3/6)

 

三浦綾子さんの大ファンですが、キリスト教について少しわからない事があります。

 

「新約聖書」と「旧約聖書」とはどういうことですか?

 

旧約というのが昔からある聖書の翻訳で新約というのが近年に訳された聖書ということかなと思ってましたが、違うのかな?教えてください。

 

回答 浅野(2004/3/7)

 

求道2年目の、わたしの知ってる範囲で回答します。

 

旧約聖書は、かんたんにいうとキリスト(救い主という意味)が来る前にかかれたもので、新約聖書は、この世界に救い主・イエスがきてから、書かれたものです。紀元(西暦)を前と後に分けるのはキリストの誕生を基準に考えますから、紀元前は旧約、紀元後は新約となります。だからキリストがこの世界に来てから、今年で2004年ということになります。

 

つぎに、分量についてですが旧約聖書は、新約聖書の3倍の量があります。形式に着目すると旧約聖書は創世記(神の天地創造やアダムとイブの話)からはじまり物語や詩、格言を書いたものなどジャンルは多種多様です。それに対して新約聖書は、手紙として書かれたものがほとんどです。この2つの書物を、まとめたのが聖書です。

 

内容の面に注目して旧約聖書、新約聖書を一言で説明すると旧約聖書は「救い主よ、早く助けにきてくれ!」となります。とくにイエスが生まれるしばらく前からユダヤ人の国イスラエルはローマ帝国の植民地になっていました、植民地ですから重い税金をかけられるし、ローマ人に比べていろいろな差別や屈辱をユダヤ人は受け続けてきました。不満は募っていき、我慢の限界が来て、反乱が起きます、しかしウシとカエルほど違う武力ですぐに鎮圧され、反乱に参加したものは処刑されて帰ってきません。そんな八方ふさがりな状況がキリストが生まれる直前にありました。

 

そんな、いってみれば最悪な時にイエス・キリストは、この世界に来られました。そして三十数年の人生をとうして、人々の心に忘れることのない愛を残します。それを書いたのが新約聖書です。一言で言えば「救い主は来られた。こんなにすばらしいかただった!」ということが書かれてあります。とくに4つの福音書(ふくいんしょ、と読む)は、イエスに寄り添って生きた弟子たちが目の前で見たイエスを4者それぞれの視点で書いたものです。

 

なお、わたしは読んだことがないのですが三浦さんの著書に「新約聖書入門」と「旧約聖書入門」という本があります。また、カトリック・プロテスタントともに使っている「新共同訳聖書」の巻末のほうに「聖書について」という説明があります。

 

ちなみに私も福島県在住です。三浦さんの本を読んで、キリストを信じるようになってもうすぐ2年になります。通っている教会(日本キリスト教団郡山教会)は、三浦さんと同じ教派がいいと思って選びました、今日は日曜日なので、これから礼拝に行ってきます。教会によっては聖書研究会をやっていたり、伝道熱心な牧師先生だと、親身になって聖書について説明してくれます。今回の質問にもっとも適切に答えられるのは、やっぱり牧師か神父かもしれません。

 

 

疑問377 Mさん 千葉 (2004/1/8)

 

私はうつ病で(性同一性障害もある)仕事をしてないことと、病気のつらさ、一人暮し、将来に対する不安のせいか、さみしさと心細さが強くて、すぐに人に電話をしてしまいます。(メールは文章考えたり、キーボード打つのがつらいです。電話でしゃべる方が楽です。)電話で人にすがってるような感じです。こういうときこそ神様にすがる(お祈りする)べきだと、心ではわかってるんですけど。。長電話をして人に迷惑をかけてる気がします。だからやめようと思うのですが。。長電話をしても、さみしさ、心細さはなくなりません。皆さまは、さみしいとき、心細いとき、どうしていますか?やっぱり、神様にお祈りして、聖書を読むのでしょうか?私は無理にそうしたことは何度もあるのですが、やっぱりさみしいです。皆さまの体験談とかご意見があれば伺いたいのですが。。よろしくお願いします。

 

(2004/1/17) 浅野さん、わかりやすいお答えどうもありがとうございます。神様に長電話するように話してみますね。私、初心者に見えるかもしれませんが、実は洗礼受けて12年くらいになるんです。信仰の成長があまりないんでしょうか・・。神様に従えないこともいっぱいありますし。そんなことで悩んでることも、神様に、ひとつひとつ話してみます。「光あるうちに」も読みなおしてみようと思います。ありがとうございました。

 

回答 浅野 (2004/1/16)

 

私も失業中で、病気はしていませんが左腕を大けがしてリハビリ中のものです。求道者になって1年半。まだキリスト教のなんたるかを語る資格はありませんが、初心者同士? かも知れないと思ったので回答します。

 

祈りについてですが、Mさんが感じた淋しさや心細さをそのまま人に話すように主に祈ってみたことはありますか。人に話すときって、事情を詳しく説明するのがたいへんだったり、言葉が適切でなくて誤解されることがあったり、自分の期待した答えが返ってこなかったり、することって結構あると思います。

 

その点、主はすべての事情を知っていますし、主に祈ることは場所も時間も選びません。自分でも言葉にできないような気持ちってときどきありませんか? そういうことも主はくみとって理解してくれます。そして人に話すときは、やっぱり体裁やプライドがあって自分の気持ちを正直に語りつくすことはできないと私は思うのですが、主への祈りはかさねるにつれ正直に話せるようになっていくと思います。そして神様への長電話は誰にも迷惑はかかりませんし、主はむしろその長電話をよろこんで聞いてくれますよ。そしてそのままのあなたを主は愛してくれます。

 

信じるものの一人も滅びることを望まない神がイエス・キリストだからです。そのものを一人も漏らさず救うため、もっとも苦しい裏切りや絶望を人となって味わった神がイエス・キリストであり、人の苦しみのすべて体験したすえ復活し、再び全能の神の右に座した神の子イエス・キリストだからです。安心してください。

 

人に話を聞いてもらうことももちろん大切です。主に話を聞いてもらうのと同じくらい。人に助けてもらうべきことは人に、でも主に助けてもらうべきことは、主にです。

 

Mさんが悩んでいることについて「光あるうちに」が参考になると思います。

 

(2004/1/19) Mさんの素直で正直な祈りについて書かれた文章から、私が勝手に思い違いをしてしまったのです。Mさんが持っている信仰は、わたしよりずっと大きいと思います。わたしも、12年たってもMさんのように、素直に自分の心のなかを話せる自分でいたいです。

 

私自身のことについて、少し話させてください。私は去年の6月に左腕に大けがを負い救急車で病院に運ばれました。

 

手術室に向かっている時のことでした。だんだんともうろうとしていく意識のなかでベットに寝かされて、ゆっくりと流れていく病院の廊下の天井をおぼろに見ていたら、2つのことが思い浮かびました。まず最初に思い浮かんだのは、ベットを運んでくれている看護婦さんや駆けつけてくれた救命士の方々への感謝でした。みんないままで1度も会ったことがない人達なのに、まるで自分自身ののことのように、必死に私を助けようとしている。もっと意識が遠のいたとき、ふいにすごく、やすらかなあったかなやさしい雰囲気に満たされたのです。そして気がつくと私は大好きな賛美歌を口づさんでいまいた。その時まで、私はキリストの愛というものが正直わかりませんでした。が、その時「キリストの愛とは、私がどんなに惨めな状態でもけして見捨てない、いつも一緒にいてくれる愛だったんだ」ということがわかりました。

 

手術が無事終わり2日もたつと痛みもやわらぎ、絶望的な気分に襲われました。わたしは10月に、ある試験を受けるため勉強していたのですが、試験範囲の3割しか進んでいませんでした。なんとか遅れを挽回するため10万円でカセット通信教育を申し込んでいました。その教材は毎日3、4時間詰め込み学習する教材だったのですが、その教材が入院2日目に届いたのです。

 

その頃わたしは、体内の血が不足していて、頭で何か考えようとしても頭が働かず、人に話しかけられてもそれを理解し返事をするまでに10秒!? もかかっている有様だし、恐ろしいことにせっかく勉強して覚えたことがジグソーパズルをひっくり返したようにぽろぽろ穴があくように忘れているし、とてもその教材を使って勉強できる状態ではありませんでした。「神様はなんでこんなに、いじわるなことをするんだろう。わたしが一世一代の大勝負をかけて今年の試験を受けようとしていたのに」せっかくキリストの愛がわかったはずだったのに、その時のわたしはそう思いました。

 

入院生活のなか、時間だけはありあしたから、わたしは聖書と賛美歌と三浦綾子さんの本と、あきらめきれずに勉強の本をもって誰も来ない、日当たりのいい3階非常階段の踊り場で一人座り込み、それらの本を読み疲れてくると、立ちあがり外の景色を眺めながら考えました、何で今回、神様は自分が一番困ることをわたしにしたんだろう、と。その暗いトンネルのような日々を、1ヶ月続けて自分なりにいたった結論は「神様は、そのときの状況で一番いい選択をわたしにしてくれている」ということでした。もしかするとわたしは死んでいたかもしれないし、左手をなくしていたかも知れない。あるいは左腕でなく顔をけがしていたかもしれない。そういうたくさんの選択肢のなかで、神様は必死になって一番いい選択をしてくれてるし、いままで(キリストを知る前も含めて)もそうしてくれていたに、ちがいない」ということでした。

 

わたしも、うつになったことがあるので、今Mさんが苦しんでいることが少しわかるような気がします。最近、わたしが自分のケガについて思っていることは、それは自分にとってのパプテスマだったんじゃないかということです。ケガをした人に、自分のパプテスマについて話すと何だか? 安心してくれることに気がついたからです。人間の想像力にはきっと限界があって、ケガや病気になった人でなければわからない苦しみがあると思います。そしてその苦しみを味わった人でなければ、その苦しみをいま味わっている人を本当の意味でなくさめれないのかもしれない。

 

主のように、すべての人の苦しみを受け止めることは私たちにはできないから、主の苦しみの何億分の1を予防接種のようにクリスチャンたちはその身に受け止めなければならないのかもしれない。わたしにとってはケガであり、Mさんにとってはうつであり。その苦しみを受けたものしかできない慰め(ワクチンみたいな)がきっと自分でも知らないうちにできてるのかもしれない。

 

きっとそれが「キリストの福音」という名の木になった実で、その実を食べてすばらしいと思った人が「キリストの福音」という木の苗木をもってかえって自分の心の庭にまき、そうやってキリスト教が世界に広がったのかもしれない。

 

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